るりかけすの空は

桜を歌うとしたら

早いもので先日のライブから3週間近くが経ち、いつのまにか桜も満開を迎えました。この週末はお花見に出かけられた方も多かったのではないでしょうか。

昨年は仕事に追われて桜を見ないままに散ってしまった記憶があります。通勤電車に乗っていた頃は、車窓から見える桜にさえ束の間の癒しをもらっていましたが、今はあえて見に行かないと桜を見る機会がありません。
今年は数年ぶりの喘息という事態も手伝って、残念ながらお誘いをいただいたお花見にも参加することができませんでした。

そんな中、所用で訪れた先で、見事に咲き誇る桜並木の下を歩くことができました。お花見に訪れていたあふれるほどの人に思わずクラクラして、早々に引きあげてしまいましたが(苦笑)。
それにしても、桜を見るためだけに(たとえ飲食優先だとしても、一応お花見という名目のもとに)これだけ沢山の人が集うなんて、お花見はもはや日本の立派な「文化」。皆さんお元気ですばらしい!

実は過去をふり返ってみると、いわゆる「お花見」というものに参加した記憶は思い出せる限りで1度か2度しかありません。
そのかわり、通勤の道すがらが桜堤だったり、名所の公園に近かったりするので「お花見をしている人たちを見る」機会は毎年のようにある環境でした。
その時に必ずといっていいほど感じるのは、お花見の「現場」にあふれかえる浮き立つような温度。これでもかと咲き乱れる桜の樹を取り囲むように人のエネルギーがふくれあがって、軽いめまいを覚えてしまいます(ヘタレ)。

見る人の数だけ桜の見え方も違うはず。
私にとって桜は喜びか哀しみかと言われれば、間違いなく哀しみの方であり、「静」か「動」かと言われれば、限りない「静」なのです。
花を見て心が安らぐ、喜びを覚えるという人をうらやましく思うような詩情に欠ける私ですが(大体違うことを考えてしまうのです、、苦笑)、辛くて仕方のなかった時、ひとり桜を見上げてはどんな言葉よりも大きな慰めと力をもらった経験があります。その経験があまりに大きかったゆえに、桜はひとりで見上げるもの、舞い降りる花びらをぼんやりと眺めながら物想いに耽るもの、というイメージが強いのだと思います。ひいて言えば、桜だけでなく、あらゆる自然というものが私にとっては孤独と対峙しているものであり、考え、思索する源になっていると感じます。

桜を謳った歌は数え切れないほど存在します。
もし、今後桜の歌を書くとしたら、それは大勢で楽しむ桜ではなく、ひっそりと静かにたたずむ桜になるでしょう。

日本の文化とは切っても切れない桜。
学校の秋学期制への変化と共に、桜の花と入学式という図式が変わっていくのは少しさみしいような気もする今日この頃です。

d0103656_11513067.jpg

[PR]



by sorapis | 2012-04-09 12:02 | Murmur:つぶやき

シンガーソングライターるりかけすの山と本とサブカルな日々の話。
by sorapis
プロフィールを見る
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30